MADE IN JAPANの裏側とパジャマのこと。前編
パジャマ屋となり、10年と240日。
ある日、書店で手に取った本の一文に、私は深く考える機会をもらいました。
それは、、、
「あなたはなぜ今のビジネスをやっているのか?
その問いへの答えがなければ、ビジネスはただの集金活動になってしまう」
ぐぐ、、、すんなりと言葉が出てこない。悶々とすること数か月。。
でもいまならはっきりと言えます!
とその前に…
まず私の生い立ちとMADE IN JAPANの知られざる真実をお伝えしなければ。
この真実を是非知って欲しいです。
私は岐阜県岐阜市で生まれ育ちました。
あまり知られていませんが、名古屋から快速で18分で岐阜駅に着きます。
意外と近い。
母方の祖父が生地やボタンから、ランジェリーや洋服などの既製品まで扱う問屋を営んでおり、父は婿養子に入りその会社を継ぎました。
一方、父方の祖父はニットメーカーで、水着の生地やコムデギャルソンなどの東京ブランド向けに生地を作っていました。
昔、岐阜は繊維の街として栄え、岐阜駅を出るとすぐに問屋がずらりと並び、ものづくりの街の景色を作っていました。
私が鼻たれデブ小僧だった小学生時代は、土日になると人で溢れかえっていた問屋街。
4つ上の兄と走り回って遊んで怒られた問屋街。
今は荒れ果てたシャッター街となり、問屋街を歩く人は少なく、ゴーストタウン化しています。
テレビで人気の「逃走中」のような、大人の追いかけっこをしたらめちゃくちゃ楽しそうな街になっています。(とても不謹慎)

(参照:岐阜繊維問屋街 – 問屋町区画 | 日本各地の商店街)
親戚のおじさんやおばさんも繊維関係の会社を営んでましたが、安い海外製品が出てきたことで、みんな生き残れなくなりやめてしまいました。
父の会社も売上の低迷が主な理由で、10年ほど前に会社を閉めました。100年以上続く会社でした。
そんな環境だったので、洋服を生業にすることの厳しさ、難しさはよく聞かされていました。
でも、高校時代から洋服が大好きでしかたがなかったわたし。
大学では一年間ロンドンに留学後、銀座にあるバーニーズニューヨークで裏方の在庫のチェックや補充のアルバイトをしていました。
バックヤードには、ハイブランドの洋服が所狭しと並んでいました。
その頃から異常に生地を触る変態癖が出ていました。
なんで同じコットン100%でもこんなに柔らかかったり、硬かったり肌触りが違うんだろう。
洋服を触り品質表示を見る奇行を繰り返していました。
バイト代を10万円もらって、そのお金以上にこのお店で洋服を買う。
お店にとってはきっと有難いバイトくんだったと思いますが、どう考えてもクレイジー。
大学卒業後は、一年間ファッションビジネス全般が学べる専門学校に入りました。
そこで、日本には生地の産地がたくさんあり、海外のハイブランドが日本製の生地を使っていることを知り、生地屋さんで働きたい!海外のブランドに日本製の生地を売りたい!という思いが強くなりました。
卒業後、繊維商社に就職し、希望が叶い海外営業部に配属されました。
私の役割は、日本の生地産地を回り、生地を作り、海外ブランドに売り込むこと。
シルクは山形や京都。コットンは静岡や兵庫。ウールは愛知や岐阜。デニムは岡山や広島。などなど。

参照:https://www.seni-search.jp/japan_products.html
あまり知られていませんが、日本の生地のクオリティは世界で一、二を争うほど素晴らしいです。
日本人にとって誇りに思えるようなことが、ほとんど知られずにいたことに、私はとても歯痒さを感じます。
全国を回らせてもらい、生地屋さんたちと一緒に生地を作ることが何よりも楽しかった。
でも、、、悲しいことに、毎月のように生地屋さんから廃業のお知らせが届いていました。。
後編につづく。
