朝がまた来る、何気ない小さな日々を愛して

SU.MART PAIN ス・マートパン オーナー 池辺澄さん

 

夜と朝の狭間にある、その時間のことを、どれだけの人が実はよく知っているのだろう。そこにはもしかすると私たちの知らない美しさが、空に、音に、香りに、描かれているのかもしれない。

池辺澄さんのパンを前にして、目を閉じて、ゆっくりと深呼吸してみると、静かに心に染み込んでくるのは、その淡いヴェールを纏ったあの時間の流れだろうか。夜空に散りばめられた小さな光のかけら達が、ひっそりと囁くように林の上で煌めくような。

朝という時間が闇に少しの光を差し込みながらそっと、時間をかけて、空を迎えにくるような。そんな時間と共に生きる澄さんの作るパンは、どこまでも、心地よい。


子供の頃から「眠ることが何よりも好き」だという。
今でも夜遅くまで起きていることが、澄さんは苦手だ。「悩みとか、すれ違いとか、喧嘩とか。嫌なことが、眠ることで完全にリセットされて解決策が見えたり。」

元々寝具のデザイナーであり、出産後は機織りの制作をしていた。そこから十数年前にひょんなことがきっかけで始めたパン作り。そんなパンが、日々受け止めてくれることは大きい。

「パンを触りながら作業している時が、脳が一番アクティブ。問題の解決策も浮かぶし、楽しいことも浮かぶ。常にポジティブなことばかりを考えて作業しているわけじゃ無いんですけど、そんな時はパンが受け止めてくれてるのかなあって。」

ス・マートパンに訪れたことがある人なら、「受け止める」という言葉が澄さんのパンにとても似合うと感じるだろう。

ちょうど、眠りの時間が、そしてパンという存在が、程よく大きくて柔らかな枕のように日々の想いを受け止め包み込むように、澄さんのパンは誰をも静かに受け止める。気取ることがなく、私たちのいつもの日常に、すっと馴染んでいく。



心の余白が見せてくれるもの

そんなパン作りと向き合い始めて、十数年。酵母に日々向き合う中で、今のス・マートパン、そして澄さん自身の在り方が自然と形作られてきた。

「頑張りたいと気持ちが先走っていた頃、無理な量の注文を受けて仕込みをしたんです。そしたら、朝起きると冷蔵庫が全開でパン生地が台所に溢れ出していた、なんてことが。今思えば限界を超えていて、その時は自分に余白を残しておくことの大切さを知らなかったんだと思う。」

自分の両手だけでは抱えきれないものが、酵母とパン生地を通して溢れ出した時だった。

「夏休みが楽しみすぎて、休みに入った途端冷蔵庫に酵母を入れっぱなしで休みが明けるまで一眼もくれない時もあって。そんな状態で9月にパンを焼こうとすると、酵母がいうことを全く聞いてくれないこともありました。何をやっても膨らまない・・結局それは12月ぐらいまで続きました。自分の気持ちが酵母に全く向いていなかったことが原因だったと思う。」

だからこそ、澄さんは今、酵母という生き物を相手に、心に “余白”をもって向き合う。7月から10月の長い夏休みも、そのためだ。毎週焼くパンの数も決めていて、それ以上を焼くことはない。

心の余白は、見えない向こう側に想像力を働かせて生きることにもつながると、澄さんは話す。「酵母の世界なんて、想像するしかなくて。色んなものがいる中で、良い菌もいれば悪い菌もいる。嫌なものだけを排除するのが正解ではなくて、全てがうまくバランスをとって成り立っているんだろうなって。」

余白を持つことが、あるがままを受け入れ、行く先を信じ委ねていく心となっていく。

人との関わりも同じだという「同じ意見の人より、自分と違った意見をもっている人の話を聞きたいなと思う。時に痛い目に遭うこともあるけれど、ね。」


週2回のパン屋オープンの日。一年を通してまだ真っ暗な午前2時、何よりもまず先にパジャマから洋服に着替えることで、澄さんの1日はスタートする。
まだ見ぬ新しい1日へと向き合う、小さくて大きな区切りのような習慣だ。

「自分の世界の中で作業できるのが心地よくて」という澄さんは、お気に入りのラジオの音と工房の小さな灯りがひっそりと囁きあうような中で、静かに手を動かす。

カンパーニュとバゲットという、とてもシンプルなパンがうまく焼けるかどうかが一番大切だという。シンプルだからこそ誤魔化しは効かない、その焼き上がりに全てが現れる。

「当たり前だけれど、その日その日、季節によって、私のパンもいつも同じということはない。パンの生地がこね上がった時点で、少し口に含んでみるんです。舌ざわり、風味・・何よりも、鼻に抜ける香りを確かめてみる。その中に、季節の移り変わりを感じます。」

 

そんなふうにパンと、酵母と、そして自分自身との対話をそっと重ねていく、夜と朝の狭間の小さくて大切な時間。

ふと気がつくと、窓から見える景色が明るくなっていく。それは澄さんにとって「とても待ち遠しい時間」だ。夜から、朝へ。真っ新な新しい日が訪れる。

ス・マートパンの工房の白い壁には、季節によって異なる美しい朝日の表情が木漏れ日のように映し出される。



時を生けるように、生きる

パン屋になることなんて、考えたこともなかった。「幼い頃から、何になりたいの?と聞かれると困ってしまって。向上心がないと言われるかもしれないけれど、ずっと先の未来の展望も持っていなくて、今ほんのちょっと先、明日ぐらいのことを考えています。」

時を生けるように、澄さんは目の前の日々を両手で優しく包み、日常の中に散りばめられた美しさや小さな気持ちの変化を味わいながら、パンの生地にそっと練り込んでいく。

澄さんの手から生まれるパン達には、そんな風に日々を見つめる静かで温かい眼差しの跡がある。


そんな風にして、自ずと形作られていく澄さんの明日。
「10年後の展望なんて勿論無い」けれど、もしかしたら違うことをやっている、なんてこともあるかもしれない、と話す。

「今はパンを焼きたくてパンを焼いているのだけれど、何が自分を一番生かしてくれているのか、と思うと、それはお店に来てくれるお客さんとの会話なんです。今はたまたまパンを焼くことで、私とお客さんを繋げてもらっているのかも。私にとって、私のお店に来てくれる人がいること。それが人生に厚みを持たせてくれていて、そこにはただ、深い感謝があります。」


もうすぐス・マートパンの長い夏休みが終わる。竹林の側の小さな工房に、ゆっくりと朝がやってくる日々がまた始まる。

澄さんは、どんな思いで夜明けの時間を眺め、再び手を動かすのだろう。あの酵母の香りが秋の風とともに空気を充す頃、人々はお店の扉を開ける。

繰り返される小さな日々の営みを、そこに在る美しさを、こぼれないようにそっと受け止めるその手から生まれるパンを求めて。

 

 

 

text:Misha Aoki Solorio
photo:Kyouhei Yamamoto

 


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池辺澄さん
1968年、神奈川県生まれ。女子美術短期大学でテキスタイルデザインを学ぶ。卒業後、寝具メーカーでテキスタイルデザイナーとして勤務後、結婚を機にフリーランスで機織りの受注制作を行う。神奈川県・旧藤野町に移住後、パン屋がないことを機にパンを焼き始める。現在、週に2日、〈ス・マートパン〉を営業。

 

□WEBSITE
http://studioikb.icurus.jp
□instagram
@sumart.pain

 

September 14, 2024 — KANDORISAKI